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イラストレーターまつながみかのafricanとつぶやきなブログ

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まつりの話48 喜び組!? 

 

祭りに呼ばれて行くと、グループは村から先ず家をひとつあてがわられ、そこへ荷物を置いて、ごろごろしたり、運ばれてきた食事をとったりする。
そのあとは、人数によって別に寝る場所が用意されたり、されなかったりだ。
そしてたいがいの場合、家に着くと同時に若い女の子が3人から、多ければ10人位だーっとやってきて、ものすごく慣れた感じでメンバーとおしゃべりしたり散歩したりする。帰るまでの何日か、ずっとだ。

この若い女の子達、どこの村に行ってもいる。最初のうちは、友達とかガールフレンドなのかと思っていたが、後になって聞いてみると、彼女達は村がグループのために用意したスンクルン(未婚の女子)のようだった。
村は、祭りのためにやってきた太鼓叩き達に、食事や風呂や家の準備をすると同じくして女の子の用意をするのだ。たぶんね。自主的にやって来ている娘もいそうだけれど。
祭りの度に色気づいた14〜18歳位の娘さん達がオシャレして家にやってくる。
娘さん達は甲斐甲斐しく世話をするのかといえばそうでもない。
ただゴロゴロして、メンバーとおしゃべりするのだ。

これはもしや喜び組・・・

目の前で明らかにイチャイチャする人はいないが、確かに夜になると、メンバーの何人かは必ずどこかに消えて朝までいない。
「あいつ昨日の夜あの子と森にいたんだぜー」
「あいつは夜疲れちゃったから今日はいっぱい踊れないんだよー」
いやいや、似た話を聞いたことあるけれど、もしや??
まぁそういうこともあるのかもね・・・

と、ある村に行った時、スンクルンがまだ幼い少女ばかりだった。
10歳とか、そんなもんだ。
こればかりは余計な事を想像すると、ちょっとキツくなってしまった。
祭りが終わった後の蒸し暑い部屋に溢れる、娘程の年齢の女子と、高いテンションと、男達とのじゃれ合い。
不快な暑さも相まってモヤモヤした気持ちを押さえきれず、私はその場を離れて外へ出た。
すると程なくライがやってきて、
「ミカ、みんなは僕たちが村にお祭りをしに来たことを喜んで来てくれていているんだよ。だから、ミカもあそこにいて楽しくおしゃべりしなきゃダメなんだよ。」と言った。
1日中叩き続けて疲労もピークなライがわざわざ私にかけてくれた言葉を聞いて、私は素直でない自分が少し恥ずかしくなった。

ある人は、娘達は来るけれども、目的はそういうことは決してないと言っていた。
そういうことでないかもしれないし、そうでもない人がいるかもしれない。でもそれは私にはわからなかったし、たぶん明確な言葉としてわからなくてもいいことなのだろう。

ライに言われた次の村では、やはり10歳〜15歳位だったスンクルン達と、私は珍しく仲良くなった。彼女達がめったにない太鼓のお祭りをたいそう喜んで、めったに見ない外人の私に興味を持ってくれたからだ。それがすっと伝わった。手を繋いで山を歩いたり、じゃれ合ったりしていたら、私が抱いたものはちょっと余計な好奇心だったのかもしれないな、と、気持ちがさわやかになった。それではしゃいで走り回っていたら、今度はライに「はしゃぎ過ぎだ。倒れるぞ。」と怒られた。

喜び組

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category: マツ村!

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村人の話47 ババアのエロス 

 

村を訪れたのはまだたかが3回目だが、村と私の関係はほんの少しずつ変わったりもする。
1年目、本当にけむたそうに私を見ていた、ブルドッグみたいな強面のばあちゃん。存在を目に入れることすら不愉快なようすで、当然あいさつは一回も返してくれたことがなかった。
2年目、何人かの人がそうであったように、わたしを「外人」と呼ぶようになった。お金や写真や何か目的があればあいさつは時折してくれたけれども、ちょっとバカにした目つきで、笑顔はなかった。
そして3年目になり、わたしはあるきっかけでこのばあちゃんの笑顔をゲットすることができた。
ばあちゃんは村の人にとっても強烈キャラのようで、ばあちゃんのくせに、もんのすごく下ネタが下品だ!
ばあちゃんはわたしを見つけるたびに、言いたくてうずうずした笑顔でこちらに寄って来てきた。その姿はジャイアンを彷彿させた。
ばあちゃんの下ネタは時折呆れてものも言えない強烈さだったが、このばあちゃんが毎日笑顔を見せてくれたから、「下ネタに強くてよかった」としょうもない感謝もするものだ。

ババアのエロス


category: マツ村!

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たべようの話46 ごはんの時間 

 

ごはんのこと

ガスも冷蔵庫も、当然電子レンジもないこの村で、朝も昼も夜も女性はいちいち料理を作るなんて大変だなぁと思っていたが、やはりいちいちは面倒のようだ。
その日に準備されたごはんというのは、思った以上にもつ。祭りに行った時なんか、朝も昼も夕方も部屋に置かれたごはんを(それもだんだんほこりまみれになっていく)食べたりするが、まぁ食べられる。でも前の日の食べ残しなど、温めなおされたルーは悪くなりやすい。時々フツフツと発酵している。そりゃそうだよね。

category: マツ村!

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たべたの話45 ヤギさんの解体 

 

前回の日記動物が肉になること は思いもかけず色々なすてきな言葉をいただきキャッチボールをさせていただけた気がした。まだまだ色んなマツ村を書いて行きたいと思いました。ありがとう。

ということで、続きはヤギさんの解体をした時のお話。前回初めて読んでくれた方が行ってしまいませんように(笑)まぁこれが通常のマツ村なんですけどね。 
今回はヤギさんの解体した写真が入っています。見解はそれぞれですが、苦手な方はご注意を。


その日はお世話になっている家族の特別な儀式があった。
儀式が始まる時、まずだいたい男女は別の場所に座る。外国人は男性の席に座ることも許されたりするのだけれど、私はできるだけ子供や部外者の座る末席に座る。
そして長老の話や、ひとりひとりが何かを述べたり、祈りやコラの実やお金が捧げられたりする。その中でも、男性が2人立って前へ出て来て、言葉のやりとりをする(もしくは一方からお言葉を頂いている)のだが、この言葉と声のニュアンスはとても味わい深い。まるで音楽のようだ。
そしてその日の最後、一頭のヤギの命が捧げられた。

前回の日記でも書いたように、男達が体を押さえヤギの喉をナイフで切りその命を断つのだけれど、その時女性達は皆、眉をしかめ、目を伏せたり、持っているバッグや布で目を覆った。やはりその行為自体はアフリカ人にとっても”痛ましい”ことであるのだ。そういう小さな当たり前そうなことを確認することで私はみんなを近くに感じた気がする、そんな1シーンだ。

命を引き取ったヤギは、仰向けにされてお腹に真一文字にナイフを入れられ、手首足首にもナイフを一周ずつ入れられる。ナイフをお腹に入れたとたん血がばーっと飛び散るイメージの方もいると思うが、それはあくまで皮を切るに過ぎず、血は足の一部をのぞき、まったくと言って出ない。男達も普通にその日のそのままの格好でやっている。
そして真ん中から皮を剥ぐ形で更にナイフが入れられるのだが、この日はもはやナイフどころか拳のグーで皮を剥いでいて、あまりの豪快さに思わず笑ってしまった。
45グーで解体
グーで解体。そして無意識に左下のものすごい存在感に気がついてしまった私と同類のあなた、この後のマンガをどうぞ。



皮が剥がれると、今度は肉を切り内蔵をひとつずつ取り出してバケツに入れ、汚物が溜まった臓器はちょっと若い男の子達が横でその処理にあたる。例えば、腸はしごいて中を出し、クルクルきれいにねじられたりする。なので、当然臭いはあるのだが、まぁ外なのですぐ慣れる。

この頃になると子供たちが寄って来る。内蔵を取り出し分けている男が、集まっている子供達に小腸(おそらく)を10センチずつ位に切って、ひとりずつに渡す。みんなにこにこして、焼いてもらうために家に走って行く。子供たちのおやつだ。
45子供達に内蔵
子供たちはじっと順番を待つ

45ライのにいちゃん
前回の滞在ではものすごくとっつきにくかったライコロ。今回はまさかの天然キャラであることがわかり、大好きになってカフェで会うとよくおしゃべりした。タイトルは「臓器を持ってにっこり」(笑)



きれいに解体が済むと臓器や内蔵は皮の上に塊で並べられてそれぞれが持って帰る。この頃には人もまばら。
45解体後の皮
きれいに皮と頭になる。皮は乾かしてジェンベに張られる。どんな音になるだろう。



そして、このヤギさんは夜に村の人や私のお腹の中に入った。

暑い暑い、そんな一日が終わった。


ティンティントキンキン

ちなみに元気モリモリになったかはさっぱりわからない・・・





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たべようの話44 動物が肉になること 

 

最近よく、私達が口にするお肉がいかに残酷な行いによって出来ているか、お肉を食べることは必要なのか、いのちをいただくとはどういうことか、そんな議論がなされるし、映像も手軽に見られるようになった。
豚や牛達が、狭い場所に閉じ込められ糞まみれになってじわじわといたぶられたあげく殺されるショッキングな映像も多い。そういったお肉を美味しい!と言っていただいているのも事実で、そこには考えたり知ったりベクトルを変えるアクションを起こすことが必要だけれども、私は「肉を食べる」ということ自体は悪だと思っていない。

そうはっきり思うのは、おそらくアフリカで見て食べてからだろう。

村で生活していると、あちらこちらに牛やらヤギやらがいる。前回の日記”マンコロ犯をさがせ!”もそうだけれど、笑っちゃう位自由に歩いている。牛は洗濯しているところをのっそのっそと横切り、ヤギは連れ立ってひょいひょいと歩き回っている。人間は自分達の食べ物をあさられたり、悪さをしそうだと感じると追い払ったり、叩いたりするけれども、あとはごく自然に共存して、飼っている訳でなくても、「ほら」と残った食べ物をやったりもしている。いたずら好きの子供がお母さんに怒られているみたいに見える時だってある。
食べるものがなくても、だからといってむやみに殺して食べたりしない。

そしてある日突然、牛やヤギに最期の日がくる。サクリフィスに選ばれたのだ。

首に縄をかけられると、危険を感じてかバタバタと暴れる。しかし木の杭に繋がれ、人間が自分を囲んで座り、話したり、立って何かを交わしたりし始めると、なんだかよくわからなくなって油断しているのか、目に見えない何かの力で鎮められているのか、おとなしくなる。
しばらくすると、何人かの男達が自分の方に向かってくる。
首と体を押さえ付けられナイフで首を切られる。ためらいもなく、あっという間にだ。
血がでる。その姿は痛々しい。胸にずしんとくる。でも、苦しそうな時間はそう長くはなく、間もなく息を引き取る。
息を引き取る姿をみんなが見ている。
息を引き取ると何人かの男達によって皮が剥がれ、内蔵が取り出され、肉が切られ、その全てが手から手へと渡る。
その一頭によって、今日沢山の家で肉を食べる歓びが生まれて、明日の元気になる。太鼓叩きが嬉しそうに皮を干す。
そうして、この牛やらヤギやらは一生を終える。

これが私が村で見た一連の流れであり、肉を食べるということだ。

誰かがこの首を切るシーンの映像だか写真だかを見て「野蛮で残酷だ」と言ったのを見たか、聞いたかしたことがあった。

そうだろうか。

私は牛やヤギに聞いた訳ではないので、それが彼らの「幸せ」なのか「悲劇」なのかなんてわからないけれど、生き物としてはより自然な生き方であり、終わり方なのではないかという気がする。
そして人間だって、そういう共存ができるのだ。

私は村でいつも美味しく大事に肉をいただいた。
そうだ、忘れかけていた。
日本でもせめて、自分の血や肉になってくれることを感謝して肉を食べよう。
ヤギのサクリフィス1
ヤギのサクリフィス2
ヤギのサクリフィス3


category: マツ村!

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